ビリっと何かが破ける音がした気がした。その思い出は痛かったけれど幸せだった。吉邑君はあれからさらに気合い入れて練習してる。教室は違うからクラスではあんまり顔を見れない。でも、教室の窓から吉邑君の練習風景はよく見ていた。予備校に行く前にグラウンドに手をふると、吉邑君が手を振替してくれる。ドキドキしながら勉強に集中するのは簡単じゃない。でも、彼が頑張っているように私も頑張らなくちゃ。
受験という厳しい季節が本番になる前に、せめて青春の思い出を味わってみたかった。私は厳しくて真面目なだけのつまらない女子で、ドラマみたいにならないと思っていたのに、桜が散る前に私の幸せが咲いた。
それなのに、そんな幸せの中にいたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。『恋は人生の全てではない。その一部分だ。しかもごく僅かな一部分だ』と私は人生の他の部分に直面して初めて気付かされた。
「おんどれぁ!娘だせっつってんじゃ、ボケが!てめぇのケツもテメエで拭けねぇボケはすっこんどけや、ボケが!」
深夜十時前に帰宅したとき、入るやいなや下品な怒鳴り声が聞こえてきた。一瞬足がすくむ。恐る恐る、居間の扉を開けて覗き込む。
「あ、きたきた。待ってたんだよ~」
妙に馴れ馴れしい声。一瞬誰かわからない太った制服姿の少年。そして思い出す。金成豚男(かねなりぶたお)、金成君だ。
「おかえり、おかえり。みんなで織乃のことを待ってたんだよ、フヒヒ」
鼻息が荒いニキビ顔。心当たりがなくてぽかんとするものの言われるがままに中に入る。人相の悪い大人の男の人が二人いて、その間にニヤニヤしている金成君。両親が膝をついている。
「へ~、織乃何も知らないんだ。思ってもなかったって感じかな?お父さんが借金抱えてるなんて想像もしていないからいつもどおりの日常を楽しんで吉邑と乳繰り合えてたんだね~」
粘っこい声。馴れ馴れしく下の名前で呼び捨てしてくる不快感に鳥肌が立つとともに、その言葉の意味することにゾッとする。
「え…どういうことなの…」
「それはねぇ、」
嬉々として語るクラスメートのいやらしい声。視線が私の全身を舐め回して値踏みしてくる。
「やめてくれ!言わないでくれ!」
お父さんの聞いたことのない切羽詰まった悲痛な叫び。
「オドレは黙っとりゃァ!おん出すぞ、コラ!」
立っている男の人が怒鳴りつける。
「このカビ臭い印刷会社はとっくに万年赤字経営、そしてついに積み重なった債務が焦げ付いたんだよ。残念だね。立霧家の目の前は真っ暗になってしまった。立霧の冒険はここまでだって感じなんだよ」
一人でクスクス嗤う金成君はとても場違いだ。
「いくら、いくらの借金なの?」
沈黙が嫌で私はお父さんに聞く。沈黙する父。クスクス笑いながら言う金成君。
「二億円。二億円だよ」
想像していたよりも桁が一つ違った。絶句する。
「しめっぽいな。僕はこういう湿っぽいの嫌いなんだけどな。普通に考えたら、差し押さえられるものは全部差し押さえて、会社を畳んで破産手続きに入ることになるんだろうけどねぇ。フフフ、そしたら織乃は大学に行けないかもね。なんとか織乃を大学に入れるまでは会社を維持しようとしてたみたいだし。ヒヒヒそれに吉邑の方も父親が路頭に迷ってサッカーどころじゃなくなるよね、きっと」
楽しそうにそういう金成くんの声を聞きながら何も気が付かずに甘い恋によっていた自分を呪った。私だけじゃない。吉邑君まで破滅しちゃう。うなだれたお父さんの背中はひどく煤けていてますます悲しかった。お母さんの方がかすかに震えているのはすすり泣いているから。
「織乃、ちょっとこっちにきなよ。今言った最悪のケースを回避するための提案を持ってきたんだ。まぁ、ほらクラスメートじゃん。僕だって少しは施しくらいしてやりたくなるんだよ」
ムカつくほどに上から目線でキッチンに行くようにアゴで指示する。そんなんだからクラスで孤立するのよと説教してやりたかった。
それでも私に拒否するという選択肢はなかった。
「負債は二億円一年に四千万円ずつ返せばたった5年、吉邑が大学を卒業する前に借金は返せるんだよ。月三百二十万円くらい返してくれればいいんだよ。そしたら債権者として今取り立てるのはやめてあげる」
そうキッチンの奥で間近で囁かれる。息が臭い。絶対、歯を磨いていない。フケもひどいし、不潔だ。でもそんな生理的嫌悪感も今は気にしていられない。とにかく状況は危機的だから。
「…でもそんな大金返せないわよ」
こんな男に総敗北を認めるのは心が痛かった。
「んふ~、そんなことはわかってるんだな。だから織乃にアルバイトの提案だよ。時給二万円の超高額アルバイト、これなら月二百四十万返せるよ」
嫌な予感がした。目の前が真っ白になるようなチリチリした間隔。
「な、何よ…」
必至でそう言いながら自分の声が震えていることが辛い。
「何を妄想してんのかな、織乃の変態」
ニヤニヤしながらそういう。変態はアンタでしょうがっと心のなかで悪態をつく。教室にエッチな本を持ってきて没収したことがあったのを思い出す。
「別に特別なことじゃないよ。学校帰りにうちに来て僕の部屋を形付けて、勉強を教えて、少し雑用をしてくれればいいんだよ。クラスメートを風俗に売ったりしないって、フヒヒ」
こんなに至近距離で私のことを舐めるように見つめて、鼻息を荒くしていっても説得力がない。それでも、確かに想像したよりはマシだった。金成君の善意は期待できないけれど、それでも想像したよりはマシだった。
でも吉邑君のことを思えば嫌だった。わがままだと自分でも思う。私の成績なら奨学金はえられるだろう。スポーツ推薦は奨学金がつくのかわからない。こんな名前も思い出せないクラスメートにセクハラされ続けるのなんて嫌だ。もっと他に方法があるかもしれない。なんとかしないと…。
「嫌よ。絶対変なことするでしょ」
「ヒヒヒ、ひどいなぁ…まっ、一日だけ織乃に時間をあげるよ。でもそれまでは取り立てすすめるから」
そう言って立ち上がる。
「それじゃぁ、またあした来るからね」
そういって汚い嵐は立ち去っていった。連れていた男たちが社用車や印刷機にベタベタと『差し押さえ』のシールを張っていく。
その夜、立霧家の食卓はお通夜よりもなお暗く絶望的だった。お母さんのすすり泣く声だけが家に響く。
「会社を閉めて、家を売ろう。売れるものを全部売れば、返せる金額に落ち着くよ。滞納してしまっている社員たちの給料も払えるだろうし」
そういって諦めたお父さんの顔。
でも私はもう一つ別のことを考えてしまう。吉邑君のことだ。
「吉邑君のお父さんはどうなるの」
「営業の佐藤さんか。残念だけど、次の仕事を探してもらうことになるな。営業に使っている社用車を売れば滞納分の給料は精算できるだろうし。まだ家のローンが残っているから可愛そうだが」
でもそんなことだったら吉邑君がサッカーに打ち込めなくなっちゃう。もしかしたらスポーツ推薦を手にできても学費を払えないかもしれない。目の前が真っ暗になる気がした。どうしよ、どうしよ、どうしよ。頭の中が不安でいっぱいになる。吉邑君の笑顔が浮かぶ。
翌日学校どころじゃないといったのにお父さんもお母さんも私を学校に行かせた。何も知らずにグランドで走る吉邑君の姿を見るのは辛かった。吉邑君のお父さんも薄々気がついているということだったどれぐらい状況が深刻かはわかっていないらしかった。
そして教室で意味ありげにウィンクしてみせる金成君。私と秘密の合図をするのは吉邑くんだけのはずなのに、二人の間に割り込まれたようでとても不快な気がした。現実逃避にスマホを開く。そういえば昨日は吉邑君とおしゃべりできなかった。着信履歴と私のことを心配するメッセージが残っている。心が暖かくて、無機質なスマホを胸に当てる。
急に私の置かれた状況は変わった。それなのに世界は理解できないほどにいつもどおりで、それが少し切なかった。
学校が終わる。本当だったら予備校に行くはずだった。それなのに金成君が私を呼び止める。
「風紀委員長、ちょっと話があるんだけどさ」
馴れ馴れしすぎて不快感が強い。今までほとんど話したこともなかったくせに。
「これから直接織乃ん家行くんだけど一緒に行かない?」
反射的に断る。
「いやよ。これから予備校だし」
「へ~、でもあの事務所とか印刷機とか社用車とか、全部これから差し押さえだけど、その前にさようならしとかなくていいのか」
ニヤニヤ気持ちの悪い笑顔で私の体をなめるように眺める。本当に嫌な男子。
「別に特に嫌がらせってわけじゃないんだよ。善意、善意~」
そういう金成君はいつも教室の端で縮こまっている矮小なオタクじゃなかった。
「し、仕方ないわね…」
いやいやその提案に乗る。金成君を迎えに来た黒塗りの外車が走り出す。
「昨日のこと、考えてくれた?」
車の中でまちきれないというように聞く金成君。私は迷っていた。確かに破産して全部失えば楽だろう。なんとかならなくはないのかもしれない。でも、吉邑君は?吉邑君のお父さんは仕事を無くしちゃう。住宅ローンだって残ってるし。それに私だって予備校も今通っているこの私立の学校も通えなくなっちゃう。せっかく良君とカップルになれたのに、ほんの一週間で離れ離れなんて悲しすぎる。
車が見慣れた家の前につく。このままだともうすぐ私達の家族のものではなくなってしまう家の前に。
「車を降りようとする金成君を止める」
「ちょっとまって…」
「ホへっ、なんだい?」
そう言ってとぼける金成君の気持ち悪い顔。
「昨日の話、もう少し詳しく聞きたいんだけど」
そう言いながら私はスケジュール帳をだした。この間、吉邑君に告白されてテンションが上りすぎて四月十日の場所にバカみたいにハートマークをつけてしまった恥ずかしい手帳だ。もちろんそんなページじゃなくて後ろのメモ覧のページだ。
「ん、何?昨日言ったことが全部だけど。うちに来て色々手伝う。時給は二万円」
ニヤニヤしているのが本当にムカつく。それでも学校のようにきつく言い返せなかった。
「いろいろって、昨日は部屋の掃除と勉強って言ってたけど」
「そうだね。あと、一緒に遊んでほしいかな、ヒヒヒ。うち、家に誰もいなくて寂しいからさ」
手帳にメモしていく。時給二万円。部屋の清掃、家庭教師、一緒に遊ぶ。
「時間は学校が終わってからね」
「そうだね、平日は五時から十時。休みの日は十時から八時でどうかな」
「…わかったわ。でも絶対に学校では秘密にして。それから日曜日は休みにして」
「ッチ、まぁ僕が織乃の言うこと聞く必要はないんだけどね。まっいいよ。吉邑の試合応援しに行きたいんだろ」
メモ帳に学校での接触はなし。日曜日は休みとメモする。本当はもう一つ確かめたいのに、怖くて言えない。破廉恥なことをするのかっと。でもそこですると言われたら、決意が揺らぎそうで怖くて聞けなかった。
「ヒヒ、じゃぁさ、今日は帰るからさ、明日から学校帰りにうちに来てよ。五時だよ」
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