1:萌夏の変化
6月
僕が彼女に出会ったのはずっと小さなときだった。2つとなりに引っ越してきた小さな女の子。小学生の僕は無邪気な好奇心から彼女に声をかけ、近所を案内した。しばらくして彼女は僕が通っていたそろばん教室に通うようになって、一緒に帰ることが増えた。
思春期になってお互いのことを意識してわざと無視し合ったりしたこともあった。それでも僕たちはお互いのことを完全に無視することができなかった。だって、彼女は僕のいる高校を選んでいたから。2歳年下の彼女にとって一緒に通える期間はたった1年でしかないというのに。でもだからこそ、僕たちはお互いのことを意識して、いつの間にかほんとうの意味で愛しく思い合うようになっていた。その1年が性を恥ずかしがる僕達の気持ちよりもずっとずっと愛おしかったから。
そして僕は東京の大学に入り、彼女は僕を追いかけて東京の大学に入ってきた。芯が強くて優等生タイプなのに僕と二人の時だけは甘えてくれる優しい彼女。僕の大学に彼女が進学してきた日、入学式の直後、僕は彼女に告白した。長い長い恋愛の真似事を繰り返した後で、ぼくと萌夏は本当に彼氏と彼女にかった。それでも僕達にあった時間はほんの2年間だけ、2年後に僕は就職した。第一希望の企業じゃなかったし、第二希望でも、第三希望でもなかった。落ち込んだ僕の肩を抱いて優しく慰めてくれた彼女。『あなたがいくところだったらどこだって私は行くわ』そう、たしかに彼女はささやいて僕を元気づけてくれた。僕たちはその時から同棲し始めた。
だから、僕は頑張って働いた。彼女に恥ずかしくない男であるために。彼女が大学を卒業して同じ会社で働くときにきちんと教えられるように。正直に言って僕は自分の会社があまり好きではなかった。誰も彼も不真面目で口だけで、隙があれば人に仕事を押し付けようとする。そんな会社を新人の僕が変えることはできないけれど、せめて先頭に立って背中で模範を見せて示すことはできると思った。だから僕はサービス残業もためらわずに受け入れた。全部愛する萌夏のために。
彼女が入社してくれば、すぐに結婚の話が出るだろう。結婚して、所帯を持ってきちんと男の責任を果たせるように準備しないと。そう思って僕は働いてお金を貯めた。
彼女が会社に面接に来た日。朝家を出る時にお互い肩を叩き合って頑張ろうと言った。彼女と僕の揺るぎない絆を感じて、そして優秀な彼女なら絶対にあんな会社を落ちることはないと確信しながら。
結果として当然のように彼女が就職した。彼女の配属された部署は僕の部署とはあんまり関係がなくて昼食の時ぐらいしか会えなかったけれども僕たちは幸せだった。
そして6月。久しぶりに一緒に出かけた。久しぶりの連休に僕たちは実家に帰って家の近所の公園で僕はプレゼントした。小学校の時に一緒に遊んだ公園だ。渡したのは精巧なイミテーションジュエリーの指輪と封筒。今はこれだけだけど、落ち着いたら本物のダイヤのエンゲージリングを用意して結婚式をあげよう。そう僕は言った。渡した封筒にはいっていたのは記入済みで彼女が署名するだけの結婚届。
そして僕たちは夫婦になった。会社でのトラブルを避けるために社内では別姓のままで通した。なんといっても彼女はまだ入って数ヶ月の新入社員なのだから余計な苦労はかけたくなかった。
9月
季節がすぎて夏が終わる。僕も彼女も真面目だったから朝早く家を出て、夜遅く帰った。忙しい日々に埋もれながらもなんとか時間を作ってたまの休みには二人でちょっとしたデートにも行った。一緒に昼食を食べて一緒に通勤する幸せで穏やかな日々。
けれども、徐々に彼女の帰宅する時間が秋の初め頃からずれ始めた。まず、会社の営業などで取引先と食事にいかなければいけないことが増え、それはすぐに週末も侵食した。彼女の帰宅はいつの間にか日付をまたいで酒臭い息をしながら帰ってくるのが普通になった。
そして彼女は秘書課に転属になった。給料は上がったし、昇進と言ってもいいと思う。祝福して近所の居酒屋で乾杯した。彼女の表情はどことなく浮かなかったのは理解できた。社長の金田はどう考えても最低のやつだったからだ。たしかに僕達の働く会社を立ち上げたのは金田だ。だけどその時には資本金を用意した共同経営者がいたのだった。実際にはその共同経営者のノウハウと資本をつかって業務を拡大し、そして自分の息のかかった人間を大量に雇用して会社を乗っ取ったらしい。そしてそれとともに社名を金田コーポレーションとして全てを支配したという。
だが、金田のやっていることは人に業務の大半を押し付け失敗したら切り捨てるという過酷なやり方で、この方法なら金田本人は責任を取る必要のない卑怯な経営だ。しかも、僕が一番嫌いなのはカタカナ語を多用し大言壮語を撒き散らすくせに残業する人間を無能と見下す態度だ。
だからそんなやつのそばに萌夏が行くことは気持ちのいいことじゃなかったし、不安だった。それでも優秀で芯の強い彼女なら大丈夫だと思っていた。ただ、今まで以上に一緒にいる時間が減ってしまうのだけが怖かった。
そして密かに僕よりも早く昇進した彼女への羨望と男としての自信喪失が伴ったことも言っておかなければいけないと思う。彼女との関係をフェアなものであり続けるために。
案の定、僕と彼女のあえる時間は著しく減った。彼女は会社ではなく社長の自宅に迎えに行くことになって一緒に通勤できなくなった。そして昼食も金田の昼のミーティングのために一緒に取れなくなってしまった。10月に入った頃から一緒の家で暮らしているはずなのに顔を見ることも珍しくなってしまった。実際、萌夏は社長に付き合ってあちこちに出張していたし、そうでなくても残業で会社の近くのビジネスホテルに泊まる事が増えているようだった。会社で時たま見かける彼女はいつも忙しそうで、声がかけづらかった。
僕たちは夫婦なのにまるで他人みたいな生活が始まった。まるで高校時代みたいにコミュニュケーションの中心はメールだけで、しかもそれさえもお互い忙しすぎてまるで業務連絡みたいな簡潔なものになってしまった。これじゃぁゆっくりとチャットで時間を共有できた高校時代の疑似恋愛以下だ。
11月になって初めて夫婦の営みを萌夏に拒否されてしまった。彼女が忙しいことは知っていたから『疲れているからやめて、おねがい』と言われたときは仕方がないと諦めるしかなかった。今年のクリスマスは一緒に過ごすことができなさそうだなと寂しく思った。
冬が来た。高校から今まで冬がこんなに寒いと思ったことはなかった。いつも萌夏とつながっていると感じられたから。一人じゃないと感じられたから。でも今は夫婦として籍を一緒に入れているはずなのにそう感じられない。はじめは休み時間の度にやり取りしていたメールのやり取りさえいつの間にか半日に一通になって、1日一通になって、そして最近は数日沖になってしまっていた。しかも年末年始は金田社長の海外展開の事前調査に付き合って海外出張が入ってしまったから一緒に実家に帰れないと言われてしまった。
12月
そして年が明ける。一緒に実家に帰ってお雑煮を食べて、お屠蘇を飲んで、夫婦になった最初の正月を祝いたかった。それなのに萌夏はいなくて、完全にやる気を失った僕は寝正月を過ごした。彼女が横にいない正月なんて5年ぶりだった。
そんな正月のある日、僕達の共通の知人と話していた。その知人は萌夏が新しい会社にはいて随分垢抜けたみたいだねと話していた。そんなはずがないと僕が言うと僕の知らない彼女のSNSアカウントを紹介してくれた。忙しい彼女にSNSを更新する余裕などあるはずがない、だから彼女の殆どのSNSはこの半年間止まったままだった。
それなのにそのSNSは頻繁に更新されていて、しかもおよそ彼女らしくない雰囲気を醸し出していた。僕はその知人に同姓同名の知人だろと言って一笑に付したが、内心では気が気でなかった。
そのアカウントは名前と会社以外の情報は全部伏せられていて、萌夏だという確信は持てなかった。それでも萌夏でないという確信も持てなかった。気がつくと僕はそのアカウントに頻繁にアクセスしていた。たぶんあんまりにも長い間、萌夏ときちんと喋れていなかったから気の迷いだろう。
そのSNSはごく最近開設されたもので履歴を遡っていくと9月に作られたものだとわかった。
最初に思ったのは多分これは同姓同名の誰か別の人間のSNSだということだった。なぜなら、あまりのも普段の彼女の真面目な雰囲気とはかけ離れていたし、なんだか不まじめな臭がしたからだ。それなのに僕達の会社に言及されていて余計に困惑した。
ほぼ数日置きに自分の人生がいかに素晴らしいものかを誇示するかのように投稿されている写真の数々。でも、どの投稿もこの手の意識高い系の人間にありがちなコメントで埋められていて萌夏の個性がどこにも見当たらない。そもそも彼女はこんなふうに投稿するタイプの人間ではないはずなのだけど。
そして6月。今日は僕達が婚約した日だった。それなのに、僕は上の方から押し付けられた業務で押しつぶされそうになって息も絶え絶えで残業していた。
僕がパソコンの前で集中しているとコトリと隣で音がした。振り向くと萌夏がそこにいた。正直夢ではないかと思った。ああ、やっぱり彼女も覚えていたんだっと安堵した。なんだか僕の知っている彼女と雰囲気が微妙に違う気がしたけど、あまりにも長い間ゆっくりと彼女のことを見る機会がなかったので確信が持てなかった。それにもしかしたら結婚1周年記念日だから気合を入れているのかもしれなかったから。
僕は軽くお礼を言って渡されたお茶を一口飲んで口を開く。
「ああ、萌夏…」
僕は彼女にかける言葉も忘れてしまっていた。
気まずい沈黙。その沈黙がこの1年、彼女と結婚してからどれほど僕達が離れてしまっていたかを示してしまっている気がした。
「今日も残業してるかなって、お疲れ様」
そう言ってゆっくり萌夏が微笑んだ。ああ、僕の知っている彼女だ。そう思った瞬間視界ぐらりと揺れた。
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