鋳沢岸斗が大ムカデに襲われているちょうどその時、宅岡出武男は人気のない通りをトボトボ歩いていた。
クソがっ、メスガキどもがオナホの分際で人のことを臭いだの間抜けだの笑いやがって。オマエラ全員ぶち犯してやるからな。
ぶつぶつと独り言でそんな正気とは思えないことをつぶやいている中年教師の出武男は傍から見ると不審者そのものだ。痩せ型で加齢臭がキツく精気のない体つきをしている割には分厚い眼鏡の奥から舐めるように人の身体を見てくるため、三ヶ森学園での評判はすこぶる良くない。
そして教師共、テメーらも最低だ。毎月おマンマンから血を出すビッチどものくせに人に仕事を押し付けやがって。クソどもが。何がIT化だ?自分たちができないことを押し付けるんじゃねえ。
出武男は情報の教師であり、担任を持たず、やる気もないので普段は定時で上がるのだが、最近は学内のサーバーの管理やら学内SNSの整備だとか仕事を増やされて鬱憤が溜まっていた。
そんな出武男がトボトボと悪態をつきながら歩いていると、水たまりを踏んでしまった。イライラしていたので見えていなかったのだ。だが、地獄はそれからだった。それは、水たまりではなかった。それが何であるか気がついた瞬間、出武男のかなり狂った感性をもってしてさえも、耐え難い嫌悪感に鳥肌が立ち、思わず絶叫した。
それはヒルだった。一匹や二匹ではない。何百何千という黒いヒルの沼だった。踏み込んだ足にびっちりとヒルが吸い付き、うねうねと出武男の健康的とはお世辞にも言えない血を吸いながらわらわらと這い上がってくる。
「うわぁあああああああ!」
思わず出武男は叫ぶ。足を振って振り飛ばそうとする。だが、離れるどころか、ますます多くのヒルが体に取り付いてくる。更に、獲物を見つけたヒルの池は蠢き始め、気がつくと出武男の足元に移動していた。血を失いすぎたのか足が細り、出武男はヒルの池の中で尻餅をつく。倒れ込んだ出武男の全身に取り付くヒル達。もはや声も出ないほどに血を奪われる出武男。それはたった数十秒の出来事だった。
「ハハハ、ヒルの風呂ってか。オジサン物好きだねぇ、でもアタイはきらいじゃないよ。特にアンタみたいな欲望で脂ぎったヤツはね。どれ、すこし助けてやるかね、クックック」
月の光がまばゆいほどにきらめいているのにどこか暗い少女だった。黒のへそ出しタンクトップにだらしなく黒いパーカーを羽織り、ゴテゴテ金属のついたスカートにやたらと底上げされたサイハイブーツを履いている。パンクファッションの少女はこの時間、こんな寂しい場所にはあまりにも不似合いだった。不健康な白い肌に赤い髪の毛。パーカーで隠れているせいで髪型はわからない。
だが、ほんの百センチほどしかない少女が手を差し伸べるとヒル達が消えていく。いや、消えていったわけではない。宅岡出武男の体の中に潜り込んでいったのだ。
「うう…」
出武男が革の穴開きグローブで包まれた少女の手を掴む。さっきまでヒルに血を吸われ、干からびるようにして死んでいたのが嘘のように元通りになっている。だが、もし彼に近寄ってよく見れば男が救われたわけではないことがすぐに分かるだろう。まだどう動けばいいかわかっていないヒル達が彼の血管の内部でうねうねとうごめいているのが皮膚越しに透けて見えてしまうからだ。
「オッサン、アンタ、名前は?」
「ああ、ありがとうございます。私は宅岡出武男といいます」
状況がわからないながらも、只者ではない少女に恐縮しながら答える。
「ハッハッハ、デブ男か!一体どんなセンスで我が子にそんな名前をつける親がいるってんだ!」
案の定、少女は想像通り爆笑する。これこそが出武男の人生が狂った第一の原因だ。名付けられたときから既にこの糞味噌な人生は定まっていたのだ。
だが、次に少女が言ったリアクションは出武男の知らないものだった。
「だが、アタイは好きだね!ファンキーだ!パンチが効いてる!デブ男、アンタ三ヶ森学園の教師なんだろ?知ってるぜ?学園生用のトイレに隠しカメラを仕掛けてることも、学内メールでの女子生徒の自撮りをコレクションしてるのも!なかなかフリーダムに生きてるじゃんか。いいね!いいね!そういう欲の皮が突っ張ってるやつを見るとアタイ応援したくなっちゃうんだよね」
出武男のありのままを肯定する。好きだと明言する。なぜかは知らないが出武男の悪事を知っていながら責めることさえせず、ましてや罵倒も拒絶もしない。
「ってーわけで、思わず妖魔にしちまったわけだ。どうだい?今の気分は、悪いもんじゃないだろ」
そう、わけのわからないことを少女は言った。だが、出武男はわかってしまった。自分が人間をやめたことを。自由に妄想を実現できる禁忌の力を得たことを。
「ああ、悪くない…です」
だがどこまでも小悪党な男は、圧倒的な巨悪の前に萎縮する。
「ケヒヒヒ、だが気をつけな!三ヶ森学園にはアタイらみたいなのを狩る目障りな連中がいるからね。せいぜいうまく立ち回るんだ。バレないように一人ずつね」
そう言って少女は目配せして、踵を返した。愉快そうに笑いながら。
「アンタには期待してるぜ、デブ男ちゃん!アンタは普通じゃない、なんせアタイ、苦森鬼龍が見込んだ男なんだから」
物悲しい人気のない道路で出武男は思わず胸が熱くなるのを感じた。今や、血ではなくヒルが溶けたドロドロした何かが何百万もうごめいている心臓がドキドキした。生まれて初めて認められた。しかも相手は人外も人外、妖魔の頂点に君臨する鬼だ。そう本能が感じる。出武男の取り付いたヒル達から妖魔の知識を得た。あの少女が鬼であり、その期待に答えるのが妖魔たる出武男の使命だと。
いや、使命でなかったとしても、男はやっただろう。今まで出武男に価値を見出した人間はいなかった。あの少女以外に。そして、するべきことは今まで四十年間貯めに貯めた欲望の開放、膿んだ憎しみで学園を覆い尽くすこと。やらない理由はなかった。
「ゴホッ…ゴホッ…やっと…俺ノ時代がキた…」
まだ定着しないのか声はおかしかった。咳き込んだ時に何匹か黒いヒルが口から飛び出して地べたに落ちて死んだ。
出武男はまだ人間の体に慣れないヒル達をなだめながらゆっくりと帰宅する。
その少しあと、茶髪の活発そうな少女が同じ場所を通り掛かる。
「あちゃー、タイミング逃しちゃったか。何かいたみたいなんだけどなぁ…」
若者らしい流行のファッションに身を包みながら、ブランド物の靴で地面の上で死んでいるヒルを潰す。
「まっ、報告だけはするかぁ」
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